僕たちのJOKER

皆さん、おはこんばんにちは。Nポリです。

今、超絶話題作となっている「JOKER」。私も例に漏れず、「トイ・ストーリー4」ぶりに映画館で見て参りました。

さてさてこの映画、楽しみ方が本当に多彩だなと思ったのは僕だけでしょうか?

ホアキン・フェニックスの演技に度肝を抜かれ、緻密なストーリー構成に見入り、鑑賞後の余韻を持って様々な思考を巡らせる。映画においては、満点の楽しませ方を披露しているのではと思います。

「JOKER」の恐ろしさ

考えを巡らせるという点において、とりわけ様々な方が書いてくださっている「考察」は本当に参考になります。何より十人十色の見方が覗けるわけで、これがもう僕にとっては最高に楽しい瞬間なんですよ。

例に漏れず「JOKRR」も様々な考察が巡らされていて、インターネットで検索すれば山のように出てくるわけです。

僕もいくつか拝読しましたが、中でもとりわけ素晴らしいなと思ったのが下記のサイトです。

【ネタバレあり】『ジョーカー』解説・考察:誰もが秘めるジョーカーという幻想を信奉する可能性

みなさんこんにちは。ナガと申します。 今回はですね映画『ジョーカー』についてお話していこうと思います。 これほど公開前に期待値を上げられまくった映画も珍しいんじゃないかな・・・? ベルリン国際映画祭にて最高賞にあたる金獅子賞を受賞し、多くの人の心を掴み、そして賛否両論を巻き起こしている問題作『ジョーカー』。 映画本編を見た今となっては、なぜ本作が、というよりもたった1本の映画がこれほどまでに社会に鮮烈なインパクトを与えたのかが痛いほどに理解できます。 この作品はアメリカという国ないし土壌があったからこそ生まれた作品だといっても過言ではありません。 『ジョーカー』という作品が生まれる背景を考えるにあたっては、アメリカという国がどういう経緯で生まれたものなのかという点から語っていく必要があるでしょう。 それほどまでにアメリカという国の本質と現状を浮き彫りにした問題作と言える今作を、今回は徹底的に解剖していきたいと思います。 今作については様々な意見や解釈がありますが、ここから書いていくのは、あくまでも個人的な解釈である点をご了承くださいね! 本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。 作品を未鑑賞の方はお気をつけください。 良かったら最後までお付き合いください。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || なぜこんなことになってるんだろ? アメリカでは2012年に映画『ダークナイトライジング』が公開された際に、コロラド州オーロラの映画館で銃乱射事件が起こり、多数の死者を出したのです。 今も記憶に新しい、凄惨な事件だったのですが、犯人は『バットマン』シリーズのヴィランであるジョーカーに憧れており、犯行時には「俺はジョーカーだ。」と叫んでいたとも言われています。 彼が犯行前に数千発の銃弾を購入していたこともあり、アメリカの銃社会に問題提起する大きなきっかけにもなりました。 何だかこの事件と今回の『ジョーカー』の公開時の騒動を思うと、アメリカという国には幻想と現実の境界がないという言説もあながち間違っていないように思えます。 もちろんこの事件を起こしたのは、たった1人ですから彼を中心にして国民性を断定するのは暴論です。

ナガの映画の果てまで

このブログで語られている一節に、興味深い主張があります。「ジョーカーは誰かがなるものではない、みんなが作り出すもの」だという趣旨のものです。文中の言葉を借りると、ジョーカーは何者でもなく、ただの狂人でしかありません。いわば器であり空っぽの存在ということです。その器を見た各々が「中身」を入れることによって、「何者でもない狂人」が「ジョーカー」として生まれるわけなのです。

そして上記の筆者は、「JOKERという映画の恐ろしさは、「誰もがジョーカーになり得る可能性を秘めている」という怖さを描いているわけでは無く、「誰もがジョーカーを崇める可能性を秘めている」怖さを描いている点である」と述べているわけです。

そしてこの、「現実と虚構の境界線」という部分においては、スポーツを観戦する側の僕たちにも当てはまる話だなと思ったわけです。

「ナポリ」とは何者か

僕らの応援するクラブとは、一体何者なんでしょうか?コンセプトカラーが水色で、「N」と書かれたエンブレムをアイコンとしていて、イタリア南部の「ナポリ」という町に本拠地を置いていることが、何者かを示すアイデンティティなのでしょうか?

それこそ、僕は「器」に過ぎないのでは無いかと思います。ナポリというクラブが起こす一つ一つのアクションは、勿論それを見る人によって見え方は変わるだろうし意味合いも変わるはずです。そして結局は、「アイデンティティ」なんて客観的な多数決でしか無く、僕らがサッカー界から「ジョーカー」を生み出してしまう可能性だって秘めているわけです。

必要なもの

だからこそ、「理念」が示されるべきだし、それに伴った「使命」や「価値観」、「行動指針」を持つべきだと思っています。どうなりたいのか、どうやってなるのかを言語化し、宣言することで、それ自体がアイデンティティとなり自らの中身を満たすことになります。

そうすることによって、周りには自然と「賛同者」が集まるはずです。何者かに規定されることも無く、来る者・拒む者の選別を行えるようになります。

さて、ここまで「JOKER」を題材として話を進めていきましたが、最後にもう一つ触れなければいけない話題が浮かび上がって来たかと思います。直近のサッカー界で起こった出来事で、正にクラブの「アイデンティティ」という問題を僕たちに投げかけてきたものです。

言わずと知れた、サイバーエージェントによるFC町田ゼルビアの買収問題です。

彼らが目指すものは何か

サイバーエージェントとFC町田ゼルビアの件ですが、要は以下のことが起こっています。

サイバーエージェントがFC町田ゼルビアを買収

          ↓

チーム名である、FC町田ゼルビアをFC町田トウキョウに変更すると発表

          ↓

サポを中心に世論が大反発

先ず前提として、サポーターの目線とクラブサイド(フロント)の目線に乖離があったのは間違いないでしょう。問題は「なぜ乖離が起きたのか」という部分です。

答えは至って簡単で、クラブに確固たる理念や価値観が無かったからか、あったとしても宣言がされてない、若しくは遵守されていなかったからでは無いでしょうか?

要は、クラブがどうなりたいか・どうなるのかと言う認識のズレが、サポーターとクラブサイドで発生していたことが起因しているのかと思います。

その点、元々が上場企業であるサイバーエージェントはここら辺がしっかりしているなと僕は思いました。ある程度の理想像と方向性は示せているため、ある意味クラブを見ている側の人たちで賛否両論が分かりやすく起こっています。「ゼルビア」を除く・除かないの問題で、結局は世論を巻き込んだ大きな反発を生んでしまい、結局は断念する方向性に進んでいると聞きましたが、これこそが「ジョーカー」を生み出さない一つの仕組みになり得ると僕は考えています。

スポーツクラブにおける「ミッション」や「バリュー」は、組織運営側のみで策定し一方的に宣言するのでは無く、潜在層も含めたその周りにいる支持者と一緒に創り上げていくべきであるという教訓も生まれました。「ジョーカーを生まない」という役割は、クラブをサポートする側にも課せられた使命であると言えるでしょう。

ナポリを見て死ね

SSC.Napoliというサッカーチームのことを中心に、セリエAのことを(そこそこ)満遍なく

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