おもちゃの物語

皆さん、おはこんばんにちは。Nポリです。

先日、映画館でトイ・ストーリー4を見て参りました。

感想を言うと、非常に面白かった。そして、ふとこんなことを思いました。

「今回のテーマ、スポーツの世界に大きく関係があるな」

これは是非、サッカーを愛してやまない皆様に伝えたいと思ったし、出来れば映画館で見て欲しい内容だなと思いました。

そして何より、僕の応援するナポリというチームにとって、少々タイムリー(ちょっと時期は外れていますが)な話だと思ったので今回筆を執らせて頂きます。

そもそもトイ・ストーリー4ってどんな話?

さて、今回の記事にトイ・ストーリー4の内容を絡ませる以上、本作の内容に触れないわけにはいきません。

以下、ネタバレなのでこれから視聴する予定があるかたはここで回れ右です。

「既に見た方」か「見る予定が無い方」のみ、ご覧いただければと思います。

以下あらすじです。

おもちゃの世界を舞台に描くピクサー・アニメーションの大ヒットシリーズ「トイ・ストーリー」の第4作。ウッディたちの新しい持ち主となった女の子ボニーは、幼稚園の工作で作ったフォーキーを家に持ち帰る。ボニーの今一番のお気に入りであるフォーキーを仲間たちに快く紹介するウッディだったが、フォークやモールでできたフォーキーは自分を「ゴミ」だと認識し、ゴミ箱に捨てられようとボニーのもとを逃げ出してしまう。フォーキーを連れ戻しに行ったウッディは、その帰り道に通りがかったアンティークショップで、かつての仲間であるボー・ピープのランプを発見する。一方、なかなか戻ってこないウッディとフォーキーを心配したバズたちも2人の捜索に乗り出すが……。ボー・ピープが「トイ・ストーリー2」以来19年ぶりに再登場を果たすほか、物語の鍵を握るフォーキー、ふわもふコンビのダッキー&バニー、かわいいアンティークのおもちゃギャビー・ギャビーなど新キャラクターたちも続々と登場。数々のピクサー作品でストーリーボードアーティストを担当し、「インサイド・ヘッド」では脚本にも参加したジョシュ・クーリーが長編初監督を務める。

↓引用元↓

ウッディという男

あらすじだけを見ると、なんてことは無い「おもちゃのドタバタ騒ぎ」を連想されるかと思いますが、とんでもないです。この物語において、先ず大事なのは主人公のウッディが「持ち主に遊ばれないおもちゃ」であるということです。そしてこの事実が、本作における重要なテーマになるわけです。

元々ウッディという男は、彼の所有者であるアンディの「お気に入り」でした。アンディは肌身離さずウッディを持ち歩き、遊ぶ時はいつだって一緒。そしてウッディにとっては、その事実(アンディのお気に入りであること)が何よりの誇りでした。

そんな中で、彼はあることに気付きます。それは、おもちゃの「役割」です。おもちゃに与えられた役割とは、「子供に遊んでもらうこと、一番の遊び相手であること」です。

アンディにとってのお気に入りだったからこそ、彼はおもちゃの持つ「役割」を誰よりも意識しているし、おもちゃであることを誰よりも誇りに感じているのです。

一貫されたテーマ

そんな「役割」というワードは、トイ・ストーリーシリーズで一貫して掲げられているテーマとなります。そしてこの「役割」というワードは、「アイデンティティ」という言葉に置き換えることも出来ます。

例えば1作目。物語はバズ・ライトイヤーという「自分を本物のスペースレンジャーである」と思い込んでいる痛いやつを中心に進んでいきます。この話の大きなポイントは、バズがひょんなことから「自分は数あるおもちゃの中の一つである」ということに気付く点です。その事実を知ったバズは自暴自棄となり、「失望の彼方へ、さあ行くぞ!」といった感じになってしまいます。

バズにとっての役割は「宇宙の平和を守ること」であり、「宇宙の平和を守っている」という事実が彼のアイデンティティでした。その「役割=アイデンティティ」が、「おもちゃであるという事実」を知ることで脆くも崩れ去りました。こうなってしまったら大変です。この時のバズを象徴する、こんなセリフが飛び出てきます。

「私は一体どこの誰なんだ!?」

本作におけるテーマも「役割」

上記にて、本作のポイントは「ウッディが遊ばれないおもちゃである」点だと述べました。何度も本記事で述べていますが、おもちゃにとっての役割は「子供に遊ばれること」であり、「子供に遊ばれること」でアイデンティティを保つのがおもちゃだと言えます。

2作目で。ウッディは大きな決断を迫られました。コレクションとして、「永久的に価値のある存在」でいるか、おもちゃとして「価値ある瞬間を刹那的に過ごす」か。彼の選んだ道は勿論、「おもちゃであること」でした。

そのような経緯の後、では「遊ばれなくなったおもちゃ」であるウッディは如何にして自分の「役割=アイデンティティ」をこの世界に見出すのか?を主題としたのが本作です。

特に物語の冒頭部分は、そんなウッディの苦悩と無念を大いに表現したものとなっています。

中でもバターカップの静止を振り切り、持ち主のボニーと共に幼稚園へと向かうシーンは、「アイデンティティを失ったウッディ」をとても良く描けたシーンかなと僕は思っています。「遊んでもらえないおもちゃ」であるが故に、自分の役割をどうにか見つけ出そうともがく姿は非常に「人間臭さ」が溢れていました。

また、彼らおもちゃは「子供を幸せにすること」が最大のミッションだと言えます。そんなミッションを体現し、また説いてきたのは他でもないウッディでした。しかし、今作のウッディはこの世界における自らの役割を見出すための「手段」として子供の幸せを願うようになります。端的に言うと、今までのウッディはいつだって「子供の幸せのため」に行動をしていましたが、本作においては「自分のため」に行動を起こしていたわけです。

そんなところにも、ウッディの「人間臭さ」が描かれており、本作の大きな主題をくっきりと表していました。

似通う2人

では、そんな「役割を全うした存在(おもちゃ)」であるウッディに待っていたのはどんな結末だったのか?ウッディの選択は、「新たな可能性への挑戦」でした。

自分の役割が全うされたことを理解し、彼は持ち主の手から離れるという決断を下しました。この結末には賛否両論大きく巻き起こっていますが、個人的にはとても綺麗な終わり方だなと思っています。

そして同時に、僕はあるシーンとのデジャヴを覚えました。そう、今年1月に訪れたハムシクとの別れです。僕は「トイ・ストーリー4のウッディ」と「ナポリのハムシク」に、少なくない共通点を見出したわけです。

皆様がご存知の通り、2019年の1月にハムシクはナポリを去りました。理由としては、ハムシク自身が「ナポリを離れ、新たな挑戦を望んだ」からであると報じられています。彼の取り巻く状況からして、非常にウッディと似通っていました。

例えば「役割」。カピターノとしてナポリの躍進を支え続けてきたハムシクですが、ここ何シーズンかの彼はベンチから試合を眺める時間が増えていたのもまた事実でした。同じポジションにはファビアン・ルイスと言う、才能溢れる「スーパースター候補」が加入したことも、彼の「新たな挑戦」を後押しした一因では無いでしょうか。

実はハムシクの中国行き、冬にいきなり出てきた話ではありません。2018年の夏にも同じように、ハムシクは中国行きの希望を口に出していました。この時、彼を引き止めたのが他でもないアンチェロッティです。そしてその時、ナポリに留まる要因となったのが「チームでの役割」だったわけです。

サッリとジョルジーニョが去り、一つの転換点を迎えたチームには精神的な支柱となれる存在が必要でした。そして彼はその役割をしっかりと全うし、クラブを去るという決断を下したわけです。

役割を全うしたものは「死ぬ」のか?

おもちゃにとっての役割は「子供に遊んでもらうこと、一番の遊び相手であること」であり、「子供の一番の遊び相手であること」という事実がアイデンティティとなります。ただこの「子供」は、誰か特定の一人を指すものでは無いということが大きなポイントとなっています。ウッディの場合、「子供」の部分にアンディやボニーの名前が入っていました。そしてある一言で重大な事実に気付くのです。「子供は一人じゃない」ということに。そしてバズの一言で踏ん切りが付くわけです。「彼女は大丈夫だ」と。

もっと早い段階でこの映画が公開されていれば、我々もハムシクに「僕たちは大丈夫だ」と送り出してあげられたかもしれません。一つの「役割」を全うしたものに待っているのは、「死」なんかではなく新たなる「挑戦」です。彼らは役割を全うすることで、新たなスタートを切ることに成功したわけです。

「無限の彼方へ、さあ行くぞ」

こんな言葉と共に。

ナポリを見て死ね

SSC.Napoliというサッカーチームのことを中心に、セリエAのことを(そこそこ)満遍なく

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