人間関係を築くということ

皆さんこんにちは、Nポリです。

つい最近彼女と別れてから、常に考えているテーマが一つあります。

それは、「人間関係」についてです。

人は、一人で生きていくことは不可能です。

どこで何をしようと、必ず人と関わる場面があります。

そして、その場面の発生を人は「出会い」と呼びます。その出会いが後々、お互いにどんな影響を及ぼすかはその時点ではありません。二言三言話した以降は一切お互いに干渉しなくなることもあれば、一つの出会いをきっかけにお互いの人生が大きく変わることだってあります。

こんな様々な可能性を秘めている「人間関係」ですが、誰とどんな人間関係を築くかはある程度個人の裁量に任されます。この人とは友達までだな、この人とは結婚も考えられるな。特に恋愛にスポットを当てると分かりやすいかもしれませんが、このような判断を日常で我々は無意識に行っているのです。

そう、「無意識に」です。なぜ強調したのか?

それは、ここがかなり重要なポイントだからです。

この記事を読んでる方の中に、彼氏彼女と別れた後「友達へ戻ること」を提案した/されたことがある人はいらっしゃいますか?「恋愛関係はここで終わりだけど、これからは友達として付き合っていこう」これと似たようなことを言った/言われたことがある人は、恋愛をしたことがある人なら少なく無いと思います。

でもこのように形成される人間関係って、実はかなり歪で不安定なものなんですよね。

何故か。それは先ほど言ったように、人間関係の構築って実は日常的に起こる無意識な選択の連続の上に成立しているものだからです。

分かりやすい例を挙げましょう。

あなたは今、友達が4人います。それぞれA.B.C.D君と名付けましょう。この4人はそれぞれ性格や趣味は勿論、笑いのツボすらも異なります。そしてあなたは、A>B>C>Dの順番に性格・趣味・笑いのツボが合います。

ここであなたに質問です。この4人から同時に「二人で遊びに行かないか」という誘いを受けました。誰と行きたいですか?

大体の人は、Aと答えると思います。だって、自分のプライベートな時間ですもん、最も気の合う人と過ごしたいですよね。

そして、同じことが5回、10回、20回と続いていくことを想像してください。当然、人間関係に差が出ますよね。A君とは滅茶苦茶仲良くなるし、逆にD君とはそこまで親しくなることは無いと思います。もっと言うと、別の機会ではB.C.Dの三人から誘いを受けたりと選択肢にも変化があります。そして当然、その中だと多くの人はB君を選択するわけです。もしかしたらD君と二人だけで遊びに行く機会は皆無かもしれません。他を交えて遊ぶことはあったとしても。

かなり極端な例になりましたが、実際に私たちの日常で起きていることとそうかけ離れた話でもないと思います。皆さんは勿論、「Aとはより親密に、Dとはより疎遠になってやろう」などと意識しているわけではないと思います。(中にはそのような方もいるかもしれませんが、、、)遊ぶ相手を選択しているうちに、無意識に差別化が行われているということです。そしてこれ、誘う側と誘われる側が逆になるともっと顕著な結果が出ます。

勿論現実はこんなに単純なものではありません。選択肢は多数あるし、予定の兼ね合いだったりが発生するともっとややこしくなります。

しかし、本質的はしっかりと捉えられていると思います。「無意識な選択の連続によって、人間関係は構築されていく」ものなのです。


ここで話を戻します。別れた後、「友達としてやっていこう」という旨を言葉にすることによって形成される人間関係。ここまで読んで頂いた方の中で大半の人は気付いていると思いますが、これって因果が逆になってますよね。

「友達関係」とは、無意識な選択の連続を行った結果によって形成されるべきものです。なのに、「友達としてやっていこう」という発言は相手の無意識であるべき選択に外的要因を及ぼすものになっちゃうんですよね。この発言によって、少なからず選択を行う際に「ああやってお互いで決めたことだし、何もコンタクトを取らないのは変だな」という思考をとってしまいます。「友達だから会う」という、正に因果が逆の状態になるわけです。

そして更に考えていくと、「本来の友達関係」とは大きな相違点があります。それは、その関係性が「自称」か「他称」であるかという点です。

要は、「あの人たちって本当に仲良いよね」って”言われる”のと、「私たちって本当に仲良いよね」って”言っている”のは全然違いますよね。

無意識な選択の連続によって形成される関係は第三者視点から友達という関係性を与えられ、逆に言葉による定義付けによって形成された関係は自らがその関係性に友達という言葉を冠す結果となるわけです。


では最後に、「じゃあ結局何が問題なの」という話になります。別に何の滞りなく円満に関係を築ければ確かにいいのですが、先ほども述べたように歪で不安定な構造を持っているんですよね。

先ず、「友達関係を申し込まれた方」に優位性が生まれます。なぜなら、「友達になろう」と言われた方が必ずしも今の関係に納得しているとは言い切れないから、そして申し込んでしまった時点で相手を追いかける構図が作られてしまっているからです。

より詳しく言及していきます。

友達になることを申し込まれた方が、申し込んでいる方と同じ気持ちでいることは稀です。何故かと言うと、同じ気持ちならわざわざ「友達としてやっていこう」なんて言葉にする必要がないからです。考えてもみて下さい。相手が別れた後も何の未練も無く仲良くする気満々な場合、こんなこと言う必要ありますか?自分も同じ気持ちなら、言葉にせずとも「本来の友達関係」が気付けるはずですよね?

自分も相手も友達としてやっていく気が無い場合でも同じことです。それなら関係を断ち切るか、ヨリを戻すかのどっちか選べばいいだけです。

つまり、双方が同じ気持ちに無いからこそ生まれる構造になるわけです。自分と相手の関係を繋ぎ止めるために「友達になろう」とわざわざ言葉にする。こうなると、申し込んだ方は関係を継続するため無意識に下手に出るようになります。本来友達って、対等な関係であるべきなのに、、、

これこそが、「歪で不安定な構造」です。片方が優位で、いつ崩壊してもおかしくない状態。これって本当に「友達関係」って呼べますか?


はい、ここまでかなり長い文章を書いてきました。

この文章を読んで、思うことがある人もいると思います。また、これから似たような問題を抱える人も居る筈です。

今回僕が取り挙げた例は一例でしかなく、元の関係性などは違えど同じようなことは他のケースでも言えるかと思います。

もう一度、ご自身が形成する人間関係についてよく考えるきっかけとなればなと思います。


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SSC.Napoliというサッカーチームのことを中心に、セリエAのことを(そこそこ)満遍なく

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